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自分の目でみたイランの今と昔

Written by Yanagi


 
  2015年5月。長い間の念願が叶い、憧れのペルシャの地を訪れた。

トリガーとなったのは、前年訪れたウズベキスタンで出会った薬屋のローラさんであった。イラン人の彼女に大変親切にしてもらい、イランに行きたいのだというと、ぜひいらっしゃい、素晴らしいわよ、と抱きしめてくれた。

旅の目的はペルセポリスを見ることと、5月盛りのペルシャの薔薇をみることだった。

革命以来、欧米資本主義、特に米国とは敵対しており、日本もビザの発給制限が厳しく、発給困難になっている関係。厳格なイスラム国であるため、女性の単独自由旅行では少し前までビザが取れなかったらしいのだ。今回もテヘランに着陸したとたん、女性客はみな髪の毛をかくすべく被り物を装着。ちょっとでもずれると注意される。

ビザについては通常よりは煩雑な手続きで、まずイラン本国の外務省から許可番号を入手しなければならない。それをもってビザの申請をする。

  受取りもテヘランのイマーム・ホメイニ国際空港到着時とした為、イミグレ前の窓口でドキドキの30分を待つことになったが、なんとか無事入国。イミグレ通過後も「そこで待て」と15分も立たされて不安を掻き立てられるが、何の為だったのか今もって不明。

ポツンと残された荷物をピックアップして手配したタクシーに乗る。英語はできない人だったので、不安ながらシラーズへ行くためにメヘラバード空港へ向かう。 

2時間ほどの搭乗のあと、シラーズ到着がすでに5時。まだ明るいが施設は閉園時間間近である。今回は国が国だけに一人旅ではどうかと思ったのと、ペルセポリスなどの歴史的遺産を味わうに、しっかり理解したいと思い、たまたま日本人女性のガイドさんと巡り合ったのでお願いすることにした。ウズベキスタンでは不思議に思うことを誰にも聞けずにフラストレーションがたまった経験も大きかった。

ガイドの阪野さん(イラン・トラベリング・センター)は在住20年超、波瀾万丈の人生を経験されている素敵な女性である

 
咲き誇るペルシャの薔薇
 

シラーズ名物、小鳥占い。今も愛される詩人ハーフェズの詩集の一節を小鳥が引いてきてくれる。

  まずは世界遺産のペルシャ式庭園のひとつ、エラム庭園へ。夕暮れの瑞々しい庭園には、これぞみたかったペルシャのバラが咲き誇り、鳥が遊び戯れて美しかった。ペルシャ式庭園は水を中心に植物を効果的に配した形式で、スペインのアルハンブラ宮殿ヘネラリーフェの庭も同様の形式である。日頃意識もせずに享受している、水のもつ力とありがたさをしみじみと感じられるのが、日本人としては新鮮であった。古代から愛されてきた糸杉の並木も素晴らしい。旅の後半訪れたカーシャーンのフィーん庭園も澄んだ水が滾々と湧いていて素晴らしかった。
  庭園を出てバザールをブラブラしたあとは夕食のためレストランへ。レストランは8時過ぎでないと開店しない。

なぜならイランはオフィスアワーが2時まで。学校もお弁当は持たずに出かけ、家に帰ってからしっかりとしたお昼ご飯を家族みんなでいただく。その為、お母さんは朝ごはんが済んだ後は、お昼の支度で大忙しなのだそうだ。

お昼ご飯のあとは4時ごろまでお昼寝アワー。その後夕方になって町へそぞろ出てゆき、ショッピングをしたり大好きなピクニックをしたりする。


綺麗に手入れされたシラーズの街。
夜遅くまで芝生でかたらう。
 
 このピクニックが半端でない。緑の芝生の公園だけでなく、木陰があればどこでも、まるで日本の花見状態のごとくぎっしり陣取っている。 お茶にお菓子、夜は晩御飯を持ち出してのピクニックだそうだ。そして通りかかる人誰にでも、一緒にどう?と声をかける。なんとフレンドリーで人情あふれる国だろうと驚く。しかもそれが夜の10時過ぎまで続くのだ。
考えてみると、飲酒淫行が厳しく制限されている国柄ゆえ、盛り場というものが存在しない。従って町の様子はいたって健全。手入れと掃除の行き届いた街は、夜遅く出歩いても全く危険を感じない。犯罪率が大変低いというのもうなずける。緊密なコミュニケーションもその理由の一つだと思われた。家族、友達、それも男性社会、女性社会でそれぞれ縦の繋がりがとても深く厚い。
 
こでも木陰をみつけたらピクニックタイム。お茶の道具は常備。 ガイドの阪野さんとドライバーのザッレさん
 年長者は年下を親身になって面倒をみるし、家族内でもこれだけ仲良くピクニックをして話をすれば、悩みや変化があればすぐに気が付くだろう。こういう社会が犯罪を未然に防ぐのではないかと思う。

さらには、いまだに泥棒は手を切り落とされるという刑罰が存在するらしく、この厳しさも犯罪抑制に一役かっているのかもしれない。

たとえば若い男女が思いのほか仲良く、公然と手をつないでデートしているのでガイドさんに聞いてみると、婚約していれば全く問題ないのだが、そうでないことがばれると即時逮捕されて鞭打ちの刑。その後も家族もろとも世間の冷たい視線にさらされるのだそうだ

 目には目を、といったのはハンムラビ法典であった。ペルシャ文明は新バビロニア王国を滅ぼしてから、メソポタミア文明のもっとも正統な継承者なのである。それはいまだにイランの人にとって大きな誇りなのだそうだ。だから同じ中東、同じイスラムということでアラブと一緒くたにされることを非常に不快がる。たしかにテヘランの国立博物館を見てみると、その悠久の歴史の壮大さに圧倒される。 テヘランだけ英語ガイドだったが、「日本はできてからどのくらい経つのだ」と聞かれ、返答に困って「少なくともペルセポリスができた頃(紀元前520年頃)はまだ洞窟からでてきたくらい」と答えるといたく満足そうな笑みを浮かべていた。



 
 
  そのペルセポリスが旅のクライマックスであった。アラビア半島から飛んでくる砂塵と、未だ規制の緩い排ガス等によりテヘランはスモッグがひどく、シラーズも翳んでいたが、訪れた日はこれ以上ないほど深く澄んだ蒼い空がひろがっていた。
ゆっくり近づく憧れの遺跡に感激が押し寄せる。すっきりと明快で力強いデザインの様式は、古代文明の中でも最も私の好みにあう。ヨルダンのペトラに続いて中東の3Pの二つ目をこの目で見て、教科書で見たあれもこれも、五感で感じられた幸福に目もくらむようだった。
この後、秋に訪れたメキシコのティオティワカンにはこの力がなかったと思った。感じ方は人それぞれだが。そしてわたしにとって、3Pの残る一つ、シリアのパルミラは、先ごろイスラム国に破壊され、永遠に見ることができなくなってしまった。この上なく残念なことである。
 
  このペルセポリス、イランの人はタフテ・ジャムシード(ジャムシード王の玉座)は紀元前520年にダレイオス1世によって建設が始められ、数代の王によって拡張運営されたあと、紀元前331年、ご存じのようにアレクサンドロス大王によって破壊される。アレクサンドロスが持ち帰った金は約3000トンといわれる。

壮大な宮殿は儀式ばった用途だったようであるが屋根は乾燥した土地において貴重なレバノン杉で葺かれていたという。どんな物語がここで展開されたのかと想像するだけで胸がいっぱいにな
る。

  牡牛に食らいつく獅子のモチーフは、歴代の王が愛したパターンといわれる。頻繁に用いられているのだが、彫刻師の親方が数人いたため、その表情が微妙に違うのが面白い。

昔はライオンやトラが、イラン高原にはたくさんいて、このようにモチーフに登場するのだが、現在はカスピ海沿岸にカスピ虎が細々と生息するのみである。後述するヤズドの鳥葬場所も、猛禽だけでなく、囲いを飛び越えてトラやヒョウやピューマがやってきていたのだそうだ。

そして牡牛は、門を守る人面有翼獣の本体でもある。牛は水を大量に必要とする家畜で、乾燥地帯には不向きな動物である。(故に砂漠地帯での放牧は羊である)。それがゆえに珍重されたのであろうか。

  この後ペルシャ古代王達の墓であるナグシェ・ロスタムとパサルガダエを訪れ、ゾロアスター教の聖地、ヤズドへ。

小さな町であるが年に一度、世界中の拝火教徒が集まるお祭りがあるそうだ。迷路のような日干し煉瓦の町はウズベキスタンのブハラと酷似していた。テヘランのガイドに言うと「そりゃブハラはペルシャだったから」とのこと。

その迷路に消えていく真っ黒なチャドルの後ろ姿は得も言われぬ異国情緒を感じさせた。ブハラにはチャドルの人はいなかった。

 
キュロス大王の王墓
ヤズドでは拝火教の特徴である鳥葬のための「沈黙の塔」も訪れる。同じ鳥葬の風習を持ってるチベットと違って遺骨は持ち帰る為、可能になるまで1カ月ほどの間、遺族は近くで待っていたのだそうだ。なにしろ乾燥しているから成立する事柄で、日本では考えらないかもしれない。

現在のイランは土葬であり、死後24時間以内に埋葬しなければならないそうだ。従って死亡が確認されたらすぐに関係者に通知をし、街角の掲示板に告知をだし、モスクでは何をおいても葬儀が優先される。日本と同様、造花の花輪が飾られ、その数によって故人の遺徳が示されるのだそうだ。しかし、いかに広大な国土といえど墓地は逼迫しているらしい。60年以上経った墓地は改修されて公園などになっているとのことだった。

 

 東ローマ帝国の皇帝をひざまずかせるシャープール1世

ヤズドのあとは古の大都イスファハーンへ。世界の半分と謳われたイマーム広場を見たかった。ここを1000年前に、偉大な哲学者であり医者であるイブン・シーナが逍遥していた姿を想像する。
中世、学問も社会システムもフランスやイギリスという白人キリスト教社会よりも遥かに先をいっていた。

広場を囲む3つの歴史的建造物は聞きしに勝る素晴らしいものだった。イスラム建築に大変に魅かれる者としては、その代表的4つの形式のひとつであるイラン式をぜひ見たかった。その柚彩タイルの繊細さは他の国にはないものでピンク、黄色という華やかな色使いも、デザイン性に優れたペルシャ人ならではである。
特徴としてもうひとつ、ステンドグラスを多用している。シンプルな色ガラスを通した強い日差しによって、床に敷かれたペルシャ絨毯にさまざまな色がばらまかれ、素晴らしい効果を生むのであった。

 
ヤズドで囲まれたのは、写真の専門学校に通うお嬢さんがた
 
ヤズドの鳥葬場所「沈黙の塔」

王墓よりペルセポリス一望 
 
きゃあきゃあ騒ぎながら一緒に写真を!と襲ってきた高校生
   

イスファハーン随一のモスク「王のモスク」。
その装飾はあまりに精緻であり、圧倒される。美意識に優れたペルシャ人ならでは。

           ムカルナス(鍾乳飾り)はひとつとして同じものはないという。  


 ピンぼけが残念。「王のモスク」と双璧をなす、「シャイフ・ロト・フォッラー」。 
シリアの大哲学者を迎えるため、王が作らせた素晴らしく美しい私的なモスク         
 
直径30cm以上ありそうなしゃれたケーキ
 
イスファハンを流れるザーヤンデ川。珍しく水量豊か。とはいえ膝深とのこと。
そして最終日は薔薇水を作っている薔薇の町、ガムサールとカーシャンを訪れたあとテヘランへ。 こちらは北部で寒冷なので、薔薇の満開には少々早く残念であった。そしてテヘランのカオスな交通事情には辟易した。 

どの町でもそうだが、客引き、ぼったくり、押し売りは一切なく、買い物をしたくてもこちらから声をかけないと相手もしてくれない。値段も定価制できちんと値札がはってあり、旅行者でも現地人でも値引きはほとんどしない。たくさん買ってくれたらオマケするという程度だ。それだけ自信をもって公正な商売をしているという事の表れだろう。街中には物乞いもいなければ子供が働いている姿もなく、お店はどれもピカピカにきれいで上等な品物を売っているし、人々も手に手に買い物をさげていて、かなり豊かな感じを受けた。


 ザーヤンデ川にかかるスィー・オ・セ橋。人々の憩いの場。
 イランは父系社会であるが、女性は婚姻後も姓を変えない。また、財産保持のため、親族間婚姻がついこの頃まで盛んで、最も理想的とされるのは母親が姉妹の従妹同士だそうだ。昨今は私立大学も軒並み増え、自由恋愛でのカップルが多くなったが、結果として離婚率も高くなっていて社会問題化しているらしい。

その理由の一つは女性の社会進出率にある。進学率も高く、専門職にもつけるので、女性の経済的自立は確かなものである。家庭内でもかなり力をもっているらしく、実は女性上位のようである。実家のサポートが篤いことも離婚の増加に影響しているのではないかと思う。加えて少子化も問題となっており、いずこも同じと思ったことだった。

経済的には中東地域ではかなり発展していて産業も盛んであるが、庶民は一戸建てや車を買う事は、まだまだ楽なことではないそうだ。昨今の情勢で経済制裁とやらが緩和されれば、もう少し暮らしやすくなるだろう

 
男気たっぷり、ドライバーのゴレスタンさん
イランは果物が豊富で野菜も良く産するが、良いものはみなアラブ諸国に輸出され、庶民には低級品しか回ってこないとガイドさんが嘆いていた。庶民に人気なのは人参のジュース。いたるところにみられるジュース屋さんで買った搾りたてを手に手に歩いている。マスクメロンのジュースも50円も出さずにたっぷりと味わえる。素晴らしくおいしい。ご飯は基本的に家で食べるので、レストランのメニューは貧弱だが、それでもヨルダンやウズベキスタンよりバリエーションが豊富でどれもおいしかった。オリーブはさまざまな味付けがあって、ヨーグルトも甘くして食べることはなく、にんにく入りのが一番印象的だった。イランの人は酸っぱいものが大好きで、煮込み料理にも乾燥したレモンを丸ごと入れる。杏やマンゴーなどドライフルーツのシロップ漬けも甘酸っぱくておいしい。ケーキなどは見たこともない直径30㎝はあろうかという大きさで、見た目も洗練されている。イランでは大家族なのでこのくらいでないと足りないそうだ。ピースでもキロ単位での販売だそうで、1キロくださいといっても「ケチね」と言われるのだそうだ。1キロでも!その割に若い女性は小枝のように細くて素晴らしく美しい。男性は鍛えてマッチョなのが人気なのだとか。しかも日本では絶滅した「男気」というものが未だ存在していて、弱きを助け、強きをくじき、男は黙って・・・のような人がいい男なのだそうだ。もちろん美形揃いである。

 

 
 
ゴレスタンさんが一生懸命探してくれた薔薇園の薔薇
どの人も人懐こく、なぜか東洋人は人気があるようで、あちこちで一緒に写真を撮ってくれとせがまれた。こちらもスカーフで頭を覆い、まぶしさにサングラスをかけているのに、どうやって東洋人と見抜くのか不思議である。

テヘランでは特にそうだが、女性のファッションも近代化しているようで、以前は前髪が少し出ていただけでも叱られたというが、被り物もふんわり緩めで、タイトなジーンズなど履きこなし、もともとアーリア人種の美しい顔立ちに濃いお化粧をしている女性はどの人もとても綺麗だった。女子は9歳から、この被り物を着ける決りだそうだ。成長の1段階として平均的な年齢だからそうだ。ずいぶん早い。しかも60過ぎまで現役とか。人種の違いなのかと驚く。男子はどうかというと、大人の仲間入りを認められるのが15歳だという。ずいぶんと男女差がある。

 
どこの国でも男の子のほうがはるかに幼い
ゾロアスター教については今回勉強してなかなか面白い宗教だということを知った。世界初の一神教、終末思想をもった宗教で、現在のユダヤ教もキリスト教もイスラム教もみなこの影響をうけて確立した。

イランの若い人も、イスラム教よりはゾロアスター教の方がいい、という人がふえているとのこと。ただし、改宗は死刑を意味するため、現実的には不可能なのだ。若い人は自由がないといって、亡命したがる人も多いらしいが、受け入れ先であるオーストラリアやカナダが、近年厳しくなっているようである。経済制裁が緩めばこのような状況にも変化があるのかもしれない。そしてなんでも許されるのが良いかというと、そうではないと日本人としては思う。なくてもよい悪徳や犯罪がはびこるよりも規制が厳しい方が良いことではないか。だから一昔前、上野あたりにたくさんいたといわれるイランの人たちはあまり評判がよくなかったのではないだろうか?残念なことである。


  人懐こいイランの人々。言葉が通じなくても関係ない

テヘランのガイド氏に尋ねた。王政時代と現在とどちらが良いでしょうか、と。

彼個人の意見としては、王政時代のほうがいろいろな困難な問題がなかったと思うとのことだった。

体制が固定するとどうしても矛盾や行き詰りを抱えてしまう。

大好きなイランの人にはぜひとも幸せな国民でいてほしいと思う。

ペルシャ語のゆったりした美しいリズムにすっかり魅了され、いつか話せるようになれたらいいなあと思いながら、イランに「ホダーハーフェズ(さようなら)またきっと来るね」と別れを告げたのだった。

 


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